彼の母の遺灰がどこへ行ったか、私はまだ話していない

2026-08-22
What the river didn't take, I rinsed away alone.
出典: I Never Told My Partner What Happened to His Mother’s Ashes
家まで連れて帰ってしまった彼女に、最後にさよならを言ったのは私だった。
散骨の日は、こちらの都合などまるで無視して、腹立たしいほどいい天気だった。
空は痛いくらい青くて、鳥は妙に張り切って鳴いていた。自然というものは人間の悲しみを一切理解していないんじゃないか、と思わせる鳴き方だった。
その朝、私たちは早くに車を出した。彼の母親が好きだった場所へ向かうためだ。有名でもないし、絶景でもない。断崖もなければ海も見えない。林の中を細い川が流れているだけの、ただの場所 。
彼女はそこへ折りたたみ椅子と文庫本を持って通っていたらしい。
「何時間でも座ってたよ」と、歩きながら彼が言った。「電話してきて、二十分くらいカモの話をされたこともある」
私は笑った。
「毎回ちがうカモの?」
「いや、同じカモ」
それがいかにも彼女らしくて、しっくりきた。
骨壺は彼の手の中にあった。道すがら、私たちはほとんど話さなかった。会話が失礼にあたる時間というものがある。沈黙のための場所に、音が入り込んでくるような感じ。
木立の間から川が見えた。水面で光が跳ねていた。
「ここだ」と彼が言った。
最後の一音が、少しかすれた。
私は彼の手を握った。
しばらく、ただ二人で立っていた。
それから彼は水辺にしゃがみこんだ。
すべてがあまりにも普通に見えることに、私は妙な気持ちになっていた。川は流れ続け、虫が水面をすべり、どこか遠くで犬が吠えている。
その隣で、彼は母親に別れを告げようとしている。
人生最悪の一日のあいだも、世界はまったく問題なく動き続ける。そういうことが、この世にはある。
彼は蓋を丁寧に外して、しばらくただ中を見つめていた。
そして話しかけはじめた。演説でもなければ、用意してきた言葉でもない。ただの会話だった。人が、誰かに聞かれていることを忘れたときにする話し方。
ありがとう、と言った。謝らなくていいことを謝った。会いたい、と言った。ちゃんとやってきたつもりだ、とも言った。
途中で、泣きながら少し笑って、彼はこう言った。
「こんな湿っぽいの、母さん嫌がるだろうな 」
私が泣きはじめたのは、そのときだった。
彼はゆっくりと灰を放した。風がすぐに一部をさらっていった。灰色の雲が水の上を漂う。ほとんどは流れの中に消え、いくらかは石の上に残り、いくらかは陽の光の中でひとしきり渦を巻いてから見えなくなった。
そして、いくらかは──あいにく──彼自身の上に落ちた。ふくらはぎに、淡い筋のような跡がついていた。
そのときは二人とも気づいていなかった。私たちは水を見ていた。別れを見ていた。実務的なことだけが、視界から抜け落ちていた。
やがて彼は川に入っていった。
水は浅くて冷たかった。彼は数歩だけ進んだ。もう少しだけ、彼女についていきたいとでもいうように。
そこにしばらく黙って立っていた。何かを待っているようだった。何を待っていたのかは分からない。合図だったのか、区切りだったのか、あるいは、ここを去ることが彼女を置き去りにすることにならないだけの時間が過ぎるのを、待っていたのかもしれない。
戻ってきた彼は、ジーンズを膝までまくり上げて、脚から水を滴らせていて、ひどく疲れて見えた。
少しだけ軽くなった顔で、それでも疲れきっていた。
私たちはしばらく並んで座ってから、帰路についた。彼の脚に残ったものに、どちらも注意を払わなかった。
家に着くと、彼はすぐにシャワーを浴びた。
上の階で水音がしているあいだ、私は持って行ったクーラーボックスの中身を片付けていた。
家の中がやけに静かだった。一日があまりにも重かったせいで、終わったあとの家はがらんとして感じられた。公演が終わったあとの劇場みたいに。
着替えて降りてきた彼は、目を赤くしていた。私の隣に座って、肩に頭をあずけてきた。ほとんど何も話さなかった。テレビをつけて、見ていないテレビを見た。
そのうち、彼は眠ってしまった。
呼吸がゆっくりになって、この数か月ではじめて、体から力が抜けたようだった。私はしばらくそのままでいて、起こさないようにそっと立ち上がった。
そして、こまごまとした家事をはじめた。
皿を洗う。
洗濯物を集める。
何が起きていようと決して消えてなくならない、日常の維持作業。
浴室の床から濡れたタオルを拾い上げた。一枚だけ、様子がおかしかった。最初は泥かと思った。白い生地に、灰色の細かい汚れがついていた。
眉をひそめた。
そして、一気に理解が追いついた。泥ではない。灰だ。彼の母親の灰だ。彼の脚に残っていた分。シャワーのあと、彼が気づかないまま拭き取ってしまった分。
私はそのタオルを、ずいぶん長いこと見つめていた。
ほんの数時間前、私たちは川辺で、人類と同じくらい古い儀式に立ち会っていた。神聖な別れ。最後の愛情表現。
そして今、彼女はバスタオルの上にいる。
浴槽の縁に腰かけて、タオルを持ったまま考えた。これは、どうするのが正解なんだろう。
この部分の話は、誰もしない。
映画にも出てこない。
葬儀屋も教えてくれない。
『パートナーの母親の一部が洗面所に到達してしまった場合の対処法』というパンフレットは、この世に存在しない。
答えは、残念ながら、明白だった。
洗うしかない。
だから洗った。
洗面台にぬるま湯を張って、慎重に手を動かした。灰色の筋はゆっくりとほどけて、淡い雲になって水の中を漂い、消えていった。
気がつくと私は、妙にうやうやしい手つきになっていた。壊れものを扱うみたいに。配管を通してでも、尊厳というものは守れるとでもいうように。
ばかばかしくて、そして胸が痛かった。
彼女がどんな人だったかを、ずっと考えていた。息子に電話をかけてカモの話をする人。クッキーを焼きすぎる人。スーパーの果物の並べ方がいかに間違っているかを二十分かけて説明する人。レストランで周りが振り向くくらい大きな声で笑う人。
ひとつの人生が粒になり、粒が汚れになり、その汚れが、洗面所に裸足で立った人間の手で流されていく。
これに謙虚な気持ちにならずにいるのは、難しい。
水が澄んでからも、うっすらと跡が残っていた。もう一度すすいで、もう一度すすいで、何も残らなくなるまで続けた。
最後のかけらは、水と一緒に排水口へ消えていった。
終わった。
空になった洗面台をしばらく眺めて、私は思った。まあ、こういうことになったか。
彼のお母さんは、林の中の川と、うちの排水管の両方を通ったことになる。
その夜、彼が少しだけ目を覚ました。
「俺、寝てた?」
「三時間ね」
「まじか」
「必要だったんだよ」
彼はうなずいた。
それから、暗い窓のほうを見た。
「母さん、今日のこと気に入ったと思う」
私は言葉を飲み込んでから、答えた。
「うん」
「俺が川に突っ立ってたの、絶対笑ってるよ」
「たぶんね」
「昔から、俺が感傷的になると笑うんだ」
私は微笑んだ。
「じゃあ間違いなく笑ってる」
彼も少しだけ笑った。
そしてまた、私の肩に頭をあずけた。
言ってしまおうかと思った。あのね、お母さんの一部、うちまでついてきちゃったんだよ。タオルについてて、洗面所の排水口に流れていったんだ。
全部話してしまおうかと思った。でも言葉は出てこなかった。話したところで、何になるだろう。
大事なのは灰がどこへ行ったかではない。彼女がすでにどこへ行き着いていたか、のほうだ。記憶の中。語られる話の中。受け継がれた癖の中。そして、息子の中に残った彼女自身の断片の中に。
灰は、はじめから彼女ではなかった。あの灰色のかけらは、体が仕事を終えたあとに残ったものにすぎない。
本当に相続されたものは、別の場所にある。彼の笑い方に、彼の頑固さに、鳥の名前を教わったせいで今でも足を止めて鳥を見てしまう、そういうところに。
だから私は、この話を自分の中にしまっておくことにした。
打ち明けるまでに、何年もかかるかもしれない。
一生話さないかもしれない。
いつか二人ともすっかり年をとって、どこかの縁側に座っているときに、ふと思い出して話すのかもしれない。
あるいはこれは、ずっと私だけのものであり続けるのかもしれない。