マーベルを嫌うことは、個性ではない

2026-08-01
Contempt Is Not Taste
出典: Hating Marvel Movies Is Not a Personality
どうやら、これを言うと妙に不機嫌になる人がいるらしい。
世の中にはヒーロー映画が好きな人間がたくさんいる。
そして私も、そのひとりだ。
拍手をするし、仮装もする。ヒーローが倒れる場面では普通に泣く。映画館で過ごす夜が好きだし、その夜にマントをはためかせる半神やミュータントや魔法使いが登場するのが、たまらなく好きだ。胸が高鳴るし、勇気が湧くし、まったく恥じるところなくワクワクする。
要するに、アベンジャーズを観るのが好きなのだ。
ところがインターネットには、その光景を見るだけで腹の底から怒りが湧いてくる種類の人間がいる。
彼らは荒れる。私たちを頭が悪いと言う。ヒーロー映画はゴミだ、文化は死んだ、こんなものを喜んで観ている連中はまとめてクズだ——そう喚き散らす。長大なスレッドを投稿し、延々と語る動画を上げ、「大衆向けのものを楽しむ愚民」を見下してみせる。
正直に言って、幸せそうには見えない。
そして私は思う。問題は、映画のほうではないのではないか。
巨大化したヒーロー映画のシリーズそのものが悪いわけでもない。
アイアンマンやキャプテン・アメリカやシャン・チーに心を動かされる人間の幸福が、悪いわけでもない。
人気のあるものを目にするたびに我を失い、天を仰いで嘆いてみせるのなら、問題があるのは、どう考えてもあなたのほうだ。
誰かの喜びが自分を苛立たせるのなら、指を突きつける先は外ではなく、内側であるはずだ。自分の感情をうまく扱えず、言葉にもできないまま、その処理を他人に押しつけているだけではないか。
楽しむことは、罪ではない
人は好きなものを好きでいていい。
楽しんでいい。
赤いマントの英雄に泣かされてもいい。
やたらと大げさな宇宙活劇に夢中になってもいい。
喜びを「頭の弱さの証拠」として扱い、楽しむことを道徳的な失点のように語ること——それ自体が、ひとつの道徳的な失点だと私は思う。
ロバート・ルイス・スティーヴンソンはこう書いた。人が最も軽んじている義務は、幸福でいるという義務である、と。幸福でいることによって、私たちは自分でも気づかないうちに、世界に対して匿名の贈り物をしている。
何かを愛し、それを愛する人たちの輪に入っていくこと。それは病ではない。そして個人の趣味は、その人が「目覚めた側」か「愚民の側」かを判定する知能検査ではない。
私の喜びに、あなたの承認は要らない。
誰の承認も要らない。
何かに心を動かされたなら、私にはそうする権利がある。それを恥じさせる権限を持つ者は、この世に誰もいない。誰も傷つけていないのにあなたが怒っているのなら、その怒りはあなたの管轄であって、私の管轄ではない。
趣味というのは、驚くほど個人的で、いびつなものだ。生きてきた時間と、記憶と、身を置いてきた場所によって形づくられる。武器ではないし、王冠でもない。魂の高潔さの証明でも、知能の証明でもない。ましてや、違うものを好む人間に唾を吐きかけていい理由には、まったくならない。
「自分はもっと上等なものが好きだ、だから自分のほうが賢い、お前たちは中身のない人間で、その楽しさは偽物だ」——そう言うのは、スノッブだけである。
そしてスノッブが幸福そうにしているところを、私はあまり見たことがない。
シリアスな映画を好むことは高潔さではないし、古典を読むことは深さではない。マーベルを嫌ってみせても、預言者にはなれないし、文化の救世主にもなれない。
人気のあるものを声高に嫌ってみせても、それで自由になれるわけではない。ただ孤立するだけ、ということもある。孤立した場所で優越感に浸ることはできるかもしれないが、寂しさが減るわけではない。
もっといい態度がある。自分は自分の好きなものを好きでいて、他人にも同じようにさせておくことだ。
自分の趣味を会員制クラブにする必要はないし、その会員証で周りの人間を殴って回る必要も、まったくない。
映画に腹が立ったとき、一度こう自問してみるといい。私は本当に怒っているのか。それとも、疲れていて、寂しくて、退屈しているだけなのか。
怒りはたいてい、悲しみや恐れや妬みの仮面をかぶっている。「自分はもう、あの頃のように何かに胸を躍らせることができない。そしてその感覚の取り戻し方がわからない」と認めるより、怒っているほうがずっと楽なのだ。あるいは「本当はみんなと同じ輪の中にいたいのに、入り方がわからない」と認めるよりも。
なぜあいつらはあれを楽しめるのか。なぜ自分は何も感じないのか。なぜこの世界は自分のためにできていないのか。なぜ自分の好きなものは流行らないのか。
そこにあるのは、投影だ。
自分の空白を他人の高揚に、自分の苦さを他人のポップコーンに、自分の軽蔑を他人の楽しい夜に、押しつけている。他人の幸福が侮辱に感じられるなら、傷はあなたのものであり、癒すのもあなたの仕事である。
人気があることと、質が低いことは別の話だ
多くの人に届いたからといって、それが空虚だということにはならない。
小さくて閉じているからといって、それが純粋だということにもならない。
もちろん、人気があって、かつ出来の悪いものもある。だが、ただ人気があるだけ、ということもある。
楽しくて、たいした意味はなくて、それでいい。人をつなぎ、隔たりを越えさせ、共通の話題 を与えてくれる。それだけでも十分だ。
ヒーロー映画は、企業的で、型どおりで、うるさくて、大味かもしれない。だが同時に、楽しくて、心を打って、ある人にとっては確かに美しく、確かに意味のあるものでもありうる。
両方本当でありうるのだ。スタジオが利益を狙っていることと、観客が本物の感情を味わっていることは、矛盾しない。巨大なブランド装置であることと、その中に人間的な瞬間があることも、矛盾しない。
「人気だから」「シリーズものだから」「子供向けだから」「本物の映画じゃないから」と切って捨てるのは、批評として怠慢である。もっとまともな問いはこうだ。何がうまくいって、何が失敗していたのか。この作品は何をやろうとして、何ができなかったのか。そして、なぜ人はこれを大切に思うのか。
装置を憎むのは自由だ。だが、席で笑っている人間を、趣味が違うという理由で憎むのは、単に器が小さい。
自分の喜びは他人の喜びを奪うことでしか成立しない——そう考えるのは、資源の乏しい原始の世界に住んでいる人の発想だ。ヒット作が自分の観たい映画の居場所を奪う、ファンダムの隆盛が文化の水準を下げる、と本気で信じているのなら、それはそれで構わないが、現実にはそうなっていない。
喜びはいくつも同時に存在できる。物語もいくつも同時に存在できる。部屋は無限にあり、焚き火も無限に燃えている。どれに当たるかは自分で選べばいい。アート系の映画を観てもいいし、難しい本を読んでもいい。ヒーロー映画を無視してもいい。自分で何かを作ってもいい。外に出て散歩してもいい。楽しそうにしている人を 、そっとしておいてもいい。
ファンを嘲る必要はない。彼らが愛するものを取り締まる必要も、怒りの投稿を重ねる必要も、嫌悪を演じてみせる必要もない。
他人の趣味を監査して回る仕事は、誰からも依頼されていない。
もっと健康的なのは、自分の注意を守り、自分の頭に栄養を与えることだ。自分の文化を作りたいなら作ればいい。自分の仲間を見つけたいなら探せばいい。だが、憎むものにしかエネルギーを注げないのなら、その人生はかなり惨めなものになる。
本当に嫌いなら、本当に憎悪しか湧かないのなら、最良の選択は立ち去ることだ。そこに立って指を差し続けることではない。
他人の「くだらない神聖なもの」を、そっとしておくということ
人間には神話と英雄が必要だ。物語も、仲間も、衣装も必要だ。何か大きなものを一緒に感じて、互いに近づき、自分より大きな何かに触れた気になる時間が必要なのだ。
ヒーロー映画はあなたの趣味ではないかもしれない。だがあれは、現代の焚き火である。
先の見えない、不安の多い時代を生きる人にとって、友情の儀式として機能している。
マーベルはあなたのためのものではないかもしれない。この先もずっとそうかもしれない。それでいい。人はそれぞれ自分の情熱と自分の趣味を持てばいいのだから。ただし、自分の分は自分で探しに行かなければならない。もし、あなたにとっての神聖なものが「他人の神聖なものを憎むこと」だとしたら、その先に待っている結末はひとつしかない。
一方で、多くの人にとって、あの英雄たちは生きている。
物語は助けになる。
場面は癒しになる。
悪役は、名前のつかなかった恐怖に名前を与えてくれる。そして結末は、希望をくれる。
一緒に楽しむ必要はない。だが、見下していい理由もない。
冷たく、意地悪く、喜びを持たず、常に他人の一段上にいようとすること。それは知性の証ではない。批評的に物を考えられる人は、むしろ好奇心のある人、言葉に正確な人、寛容な人、そして子供のように何かに見とれることができる人の中に多い。他人をまとめて愚かだと呼び、文化の衰退を嘆き、真実を見ているのは自分だけだと言い張る態度は、批評として怠惰で、退屈で、自己陶酔的なだけである。
いい批評家はこう問う。これはなぜ重要なのか。どんな必要を満たしているのか。どんな飢えを埋めているのか。観客は何を感じているのか。
賢い人は、喜びを理解する。嘲らない。
技術と商売と感情が、アートハウス以外の場所にも同居していることを知っている。
複数のことを、同時に手のひらに乗せておける。
映画を嫌うのは誰にでもできる。だが、幸福そのものを憎むのは、愚か者だけだ。何百万人がヒーロー映画を楽しんでいることは、危機でも疫病でもないし、世界の終わりの証拠でもない。
嫌いでいい。シリーズごと嫌いでいい。ジャンルごと憎んでいい。マント映画なんて滅びろと思っていていい。だが、そこに喜びを見出している人間を憎み、その軽蔑を自分のアイデンティティにしてしまうのは、苦々しさを趣味だと勘違いしているだけだ。
次のアベンジャーズを指折り数えることで、私はあなたに何か害を与えているだろうか。
その話を投稿することで、 あなたを何かに巻き込んでいるだろうか。
初日に観たいと思うことで、私はあなたから何かを奪っているだろうか。それとも私はただ、楽しみにしているだけだろうか。
覚えておいてほしい。誰かの幸福があなたを怒らせるのなら、問題はあなたのほうにある。