「考える」を、私たちは誤解しているのかもしれない

2026-07-23
Act first, think later, then adjust
出典: Are We Thinking About ‘Thinking’ All Wrong?
検索できないアイデアの話
いま、あなたの目の前に答えのわからない問いがあったとします。どうやって解きますか。
たぶん、まずスマホに手が伸びるはずです。少し探究心があれば検索して、面倒なときはAIに聞く。——だいたい当たっているんじゃないでしょうか。
誤解しないでほしいのですが、それが悪いと言いたいわけではありません。ただ、ふと引っかかったのです。
最近インスタを眺めていると、「AIに代替されない人間になるためのスキル」みたいなリールが次から次へと流れてきます。その主張が正しいかどうかはまた別の話として、そこで必ずと言っていいほど挙がる言葉があります。クリティカルシンキングです。
目を閉じて、思い浮かべてみてください
「クリティカルシンキングをしている人」を想像してみてください。
私は長いあいだ、こんな絵を思い描いていました。ノートパソコンに向かい、画面いっぱいの情報を突き合わせ、そこから一つの結論を組み立てていく人。
でも先日、起業をテーマにした小論文コンテストに向けて準備をしていたとき、その絵が崩れました。
いちばん良かったアイデアは、何時間もネットを掘り返した末に出てきたものでも、AIとの往復から生まれたものでもなかったのです。出てきたのは、よりによって湯船の中でした。アルキメデスかよ、と自分でも笑ってしまいましたが、頭がゆるんで、勝手にあちこちさまよっていたときに、それはやってきました。
なぜ「ぼーっと」しているときなのか
気になって調べてみると、脳にはそういう状態があるらしいのです。
デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれるもので、意識がぼんやりして、いわゆる白昼夢に近い状態のときに活発になります。課題に集中している能動的なモードから脳が離れると、記憶どうしが勝手に手をつなぎ、頭の中で場面が立ち上がり、思ってもみなかった発想が出てくる。
そして、たぶん察しがついている通りなのですが——画面、通知、目の前のタスク。こういうものは脳をセントラル・エグゼクティブ・ネットワークの側に引っ張ります。そのぶんDMNは抑え込まれ、あの「流れる」感じにはたどり着きにくくなる。
だとすると、私たちはフロー状態への入り方そのものを取り違えているのかもしれません。
「脳が腐る」の正体
昔の思想家たちを思い浮かべてみてください。アリストテレス、チャーナキヤ、ブッダ。彼らは四六時中せっせと情報をかき集めていたわけではありません。むしろ、脳が自分で点と点をつなぐための余白をつくっていた人たちです。
もしかすると、そこが人間とAIを分けているのかもしれません。AIが立っているのは、人類がこれまでに積み上げてきた知識の山の上です。まだ誰も見ていないものを見つけるには、結局のところ人間が自分で見つけにいくしかない。
そう考えているうちに、ひとつ思い当たりました。
いわゆる「脳が腐る」というのは、中身の薄いコンテンツを見続けることではないのかもしれない。本当に私たちの頭を鈍らせているのは、脳を働かせすぎていることのほうではないか。
現代の絶え間ない刺激は、注意を散らしているというより、脳を24時間ずっと稼働させ続けている。かつてないほど、ぼんやりする余地が削られている。だから、心が漂っていく先がなくなってしまう。
論理と想像は、別物じゃない
そう考えると、クリティカルシンキングの捉え方も見直したくなります。
私たちは、論理的で決断的な思考と、創造性や想像力を、別々の引き出しに入れて考えがちです。でも実際には、どちらも同じひとつの過程の一部なのだと思います。いい答えが出てくるのは、その両方が同時に働いたときです。
暗い話に聞こえるかもしれませんが、私はむしろ希望を感じています。この流れに対して、いちばん穏やかなやり方で「反抗」できるか らです。世界がなんとか型にはめて出力に変えようとしてくるあの好奇心のきらめきを、消さずに、そのまま燃やしておくこと。
最後にひとつ、言葉を置いていきます。
人の心は庭のようなものだ。丁寧に耕すこともできれば、荒れるにまかせることもできる。だがどちらにせよ、そこからは必ず何かが生えてくる。 ——ジェームズ・アレン
ちょっとした、考えるための種として。